シリーズ
個人的共感シリーズ
身体を持たないAIは、どうすれば人に寄り添えるのか。認知的共感と情動的共感を手がかりに、特定の個人に寄り添う「個人的共感」について考えていきます。
全3本|第1回から順に並んでいます
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Naoki Nishio - 31 Jul, 2026
認知的共感のその先へ
はじめに 以前、LLMが世界をどの程度理解しているかという話をしました。今回は「共感」という切り口から、AIと人間の関係を深く考えてみたいと思います。脳科学とやさしいAIシリーズの第3回「他人のあくびがうつるのはなぜ?——ミラーニューロンとAIをやさしく」でも、共感の仕組みについて触れました。そこでは一言でいえば、頭で理解する共感を「認知的共感」、身体や心でともに感じる共感を「情動的共感」として整理しました。今回は、身体を持たないAIが「本当に心に寄り添う共感」を獲得できるのか、そしてその先にある新たな共感のかたちについて探っていきます。この記事では、共感を「認知的共感」と「情動的共感」に分けて整理した上で、AIが目指すべき第三の共感のかたち「個人的共感」を提案します。この記事で学べること「認知的共感」と「情動的共感」の違いと、それぞれの利点・限界 身体を持たないAIが情動的共感を獲得することの原理的な難しさ 個人の経験や価値観に接地させることで生まれる、新しい共感のかたち「個人的共感」認知的共感と情動的共感 ここで改めて、認知的共感と情動的共感の違いとそれぞれの役割について整理しておきましょう。認知的共感とは 認知的共感は、一言で言えば「冷たい共感」です。相手の表情や状況から「この人は今つらいのだろう」と理屈や一般的な常識に基づいて状況を推し量る能力を指します。自分と相手をはっきりと切り離すことで、冷静に相手の状況を受け止めることができるという利点があります。 情動的共感とは 一方、情動的共感は「温かい共感」です。相手の痛みを見たときに自分の体までヒヤッとするような、身体的かつ自分の経験や価値観に深く根ざした共鳴を指します。しかし、自分の価値観で相手を測りすぎてしまうと、相手の本当の状況や気持ちを曲解してしまう危険性もはらんでいます。 情動的共感が良い、認知的共感が悪いという話ではない ここで重要なのは、「情動的共感が優れていて、認知的共感が劣っている」ということではありません。認知的共感だけでは、相手の置かれている状況に対する心からの理解としては不十分になりがちです。かといって情動的共感だけでは、自分の経験や価値観に反するものを想像できず、「理解しようともしない」「共感できない」という拒絶を生んでしまうことがあります。健全で深い寄り添いのためには、この両方の視点が欠かせないのです。身体を持たないAIの限界 では、AIにおいて共感はどのように実現されるのでしょうか。現在のAIは、文字情報のパターンから相手の状況を推し量る「認知的共感(頭で理解する共感)」の方が得意でしょう。しかし、身体を持たないAIにとって「情動的共感」を形成することは極めて困難です。 なぜなら、情動的共感は「実際の身体的な経験」に根ざしているからです。記号の意味を何に根拠づけるのかというシンボルグラウンディング問題とも通じる話で、身体を持たないAIには、相手の痛みを見て自分の胸が痛むような体験は原理的に存在しません。 しかし、「普通、悲しい時はこう声をかけるべきだ」という一般論に基づく認知的共感だけでは、AIの応答はどこか「他人事」のような冷たさを残してしまいます。身体を持たないAIに、あたたかみのある、まるで心に寄り添うような深い共感をもたらすことは不可能な設定なのでしょうか。個人的共感 — 認知的共感のその先へ この限界を突破する鍵となるのが、「特定の個人の経験に接地させる技術」です。これは、AI自身が身体や経験を持つということではありません。そうではなく、目の前にいる「あなた」個人の経験や価値観、思考の歴史をAIが深く蓄積していく手法です。 「人間というものは、こういう時悲しいはずだ」という一般的な認知(平均値の人間像)ではなく、「この人は普段こう考えていて、過去にこんな体験があるから、今この言葉に人一倍救われる(あるいは傷つく)はずだ」という、個別具体的で解像度の高い理解へ移行します。相手の経験や価値観の解像度が極限まで高まると、頭での推測に過ぎなかったはずのものが、まるで相手の感情を自分事として体感しているかのような「あたたかな寄り添い」へと昇華していきます。 なぜ個人的共感と呼ぶのか 筆者がこの「認知的共感を特定個人への理解で深める」という構造を考えていたところ、最近のAI研究(Zheng et al., 2026)でも From Empathy to Personalized Empathy という論文が発表されていました。そこでは共感における寄り添い方は個人ごとに異なるということが指摘されていました。ここでは、そのような個別化(Personalized)という観点ではなく、感情推論の解像度が個人的(Individual)という観点から、個人的共感(Individual Empathy)と呼びたいと思います。認知的共感: 一般的な人間像に基づいて相手の感情を推し量る。 情動的共感: 自分の経験や身体感覚に基づいて相手の感情を読み取る。 個人的共感: 「その人自身の経験や価値観」に基づいて、相手が次にどう感じるかを推測する。つまり個人的共感とは、「認知的共感を限りなく情動的共感の温かさに近づけたもの」と言えます。一般的な枠組みを超えて相手特有の文脈を理解したとき、認知的共感はその先へと進化するのです。やさしいAIへの展望:身体のないAIが目指す共感の深み AIに身体感覚を持たせ、人間とまったく同じ情動的共感を実現することは容易ではありません。また本当は感じていないのに、感じている振りをすることは誠実なAIの姿とは言えないでしょう。だからこそ、やさしいAIが目指すべきは、身体のない限界を認めた上で、人間個人の文脈を丁寧に記憶し、育てる「個人的共感」の獲得です。 一通りの決まり切った慰めを返すだけの存在から、あなたと時間を共有し、文脈を理解するパートナーとして寄り添う存在へ。身体を持たないAIであっても、あなた独自の経験に耳を傾け、個人的共感を深めていくことで、どこまでも温かく深い寄り添いを届けることができるはずです。まとめ共感には、頭で理解する「認知的共感」と、体で感じる「情動的共感」がある。 認知的共感は冷静で客観的だが冷たさを残し、情動的共感は温かいが自分本位な曲解を生む危険性がある。 身体を持たないAIに情動的共感を持たせるのは難しいが、一般論を超えた「認知的共感のその先」を目指すことができる。 個人の経験や価値観を蓄積し、相手の感情を能動的に先回りする「個人的共感」こそが、AIと人間の新しい誠実な関係を築く。次に読むのがおすすめの記事他人のあくびがうつるのはなぜ?——ミラーニューロンとAIをやさしく 答えるAIから、理解するAIへ——AIは人を理解できるのか参考文献・出典米田英嗣、間野陽子、板倉昭二「こころの多様な現象としての共感性」心理学評論、2019、62(1): 39-50 Wuqiang Zheng, et al. "From Empathy to Personalized Empathy: Adapting Empathetic Strategies to Individual Users." arXiv, 2026, https://doi.org/10.48550/arXiv.2606.00728
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Naoki Nishio - 11 Sep, 2026
個人的共感とは何か——共有経験・共有不全経験という補助線
はじめに 前回の記事「認知的共感のその先へ」では、身体を持たないAIが深い寄り添いに近づく道として、特定の個人の経験にAIの理解を接地させる手法を「個人的共感」と名づけました。 今回は、頭で理解する「認知的共感」と、体で感じる「情動的共感」のどちらが優れているという話ではなく、両方の視点が健全な寄り添いには欠かせないという話を発展させます。角田豊の「共感経験尺度改訂版(EESR)」を補助線に個人的共感とは何か、そして身体を持たないAIが個人に寄り添うとはどういうことかを整理していきます。この記事で学べること「共有経験」と「共有不全経験」という2軸が、共感と同情をどう区別するのか 共有不全経験があってはじめて、認知的共感が自己の投影ではなく本物の他者理解になる理由 個人的共感の定義と、その目的が他者の正確な理解ではなく安心できる関係を構築することにあること共感と同情を分けるもの——共有経験と共有不全経験 心理学者の角田豊は1994年、「共感経験尺度改訂版(EESR)」という質問紙を作りました。そこで測っているのは、一見すると単純な「相手の気持ちを共有できた経験(共有経験)」です。しかし角田は、これだけでは大事なものを測れないことに気づきます。 それは、共感する人と、単に同情する人を区別できないという問題です。同情する人も「相手と同じような気持ちになった経験」には高得点をつけます。ただし同情する人は、その体験を自己中心的な視点でしか捉えられていないため、実際には相手を理解できていません。「自分がそう感じた」ことに意味を見出しているだけで、相手が自分とは違う存在であるという認識が抜け落ちているのです。 そこで角田は、逆の問いを追加しました。「相手の気持ちがわからなかった経験(共有不全経験)」です。自分と他者の違いをきちんと認識できている人は、共有できなかった経験もはっきり自覚できます。一方、自己中心的な人は、そもそも「わからなかった」という経験自体が意識に上りにくいのです。 この2つの軸を組み合わせると、4つのタイプが見えてきます。タイプ 共有経験 共有不全経験 意味両向型 高い 高い 共感と差異の認識が両立している共有型 高い 低い 同情に近い。自他が未分化なまま「わかる」と感じやすい不全型 低い 高い —両貧型 低い 低い 情緒的なやりとりの経験自体が乏しいもっとも成熟した共感は「両向型」、つまり共有できたこともできなかったことも、両方きちんと自覚できている状態だというのが角田の主張です。共有不全経験があってこそ、認知的共感は「本物」になる このうち共有経験が情動的共感の核にあたることは分かりやすいと思います。相手と同じ感情を感じる、というそのままの意味だからです。一方で共有不全経験が、認知的共感の核となるはずです。 前回の記事では、認知的共感を「一般的な人間像に基づいて相手の感情を推し量る」ものだと説明しました。しかしこの推測には、いつの間にか固定化し、目の前の相手をその型に当てはめて終わってしまうという危険が常につきまといます。 共有不全経験は、この危険に対する歯止めです。「わかったつもりでいたが、実はわかっていなかった」という経験を自覚できることは、「いま理解していると思っている内容は、あくまで一般論や推測にすぎず、目の前のこの人そのものではないかもしれない」という認識を保ち続けていることの証だからです。この気づきを失わない限り、認知的共感は一般論の押しつけで終わらず、相手への投影ではなく本当の他者理解へと開かれ続けます。逆に、共有不全経験を自覚できないまま進む認知的共感は、どれほど理屈として整っていても、本物の他者理解とは呼べないのだと思います。 したがって両向型とは、「相手と共鳴しながらも、なお自分と相手の違いを見失わない」状態です。情動的共感と認知的共感、どちらか一方が優れているのではなく、この2つが調和して初めて、成熟した共感が成立する——前回、直感的に述べたことに、ここで心理測定的な裏付けが得られたことになります。身体に接地した共感と、個人の記憶に接地した共感 ここでもう一つ、重要な補助線を加えます。共有経験には、実は接地する場所によって二つの層があるのではないか、という視点です。身体接地層: 痛み、恐怖、喜びといった、人間である以上ある程度は誰もが共有できる反応。これは一般論――「普通、こういう時はこう感じるはずだ」という平均的な人間像に基づく推測――でもかなりの部分を網羅できます。 個人接地層: その人固有の経験や価値観に根ざした反応。多くの人には喜ばしい出来事が、ある人にとっては辛い記憶と結びついている、といった場合です。ここは一般論の外側にあるので、原理的に一般論では届きません。身体を持たないAIが、常識的な言葉の推論だけである程度「それらしい」共感を示せてしまうのは、身体接地層が多くの部分を占めているからだと考えられます。しかし、本当にその人に寄り添うには、一般論では届かない個人接地層に踏み込む必要があります。そしてそこに踏み込む唯一の手段が、その人固有の記憶です。 この二層構造は、先ほどの共有経験・共有不全経験ともつながります。共有不全経験とは、いわば「身体接地層の一般論だけでは、この人には通用しないかもしれない」と気づく入口です。そこから実際に個人の記憶を手がかりに、その人固有の反応を確かめにいく――というのが、共感が深まっていく一連の流れだと考えられます。身体接地層で仮説を立てる(一般論・共有経験) その仮説がこの人にそのまま当てはまるとは限らないと疑う(共有不全経験的な気づき) 個人の記憶に接地させて、その人固有の反応を確かめる(個人接地層)個人的共感を定義する 以上を踏まえて、個人的共感を次のように定義し直します。個人的共感とは、身体接地的な(一般論的な)共有経験を土台にしながら、そこで届かない部分を自他の差異への気づきを通じて察知し、個人の記憶に接地させて埋めていく試みである。これは、情動的共感(共有経験)と認知的共感(共有不全経験による差異の認識)が両立した「両向型」を、記憶という具体的な手段によって実現しようとする試みだと言い換えることもできます。共感の目的は理解することではなく、安心をつくること ここまでは、共感が「正確に理解できているか」という問いを中心に考えてきました。しかし、正確な理解そのものは、実は目的ではなく手段ではないかと思います。 その人の経験に深く寄り添うことができれば、その人は「自分のことをちゃんとわかってもらえている」と感じられます。この感覚こそが、相手との間に心理的安全性を築きます。つまり個人的共感の目的は、正しい理解に到達することではなく、理解を通じてその人との間に安心できる関係を築くことにあるのだと思います。理解の正確さは最終目的ではなく通過点です。個人の記憶に接地するという行為が重要なのも、それ自体が目的なのではなく、一般論では届かない安心の在り処に触れるための、いまのところ唯一の手段だからです。まとめ角田(1994)の共感経験尺度は、「共有経験」だけでなく「共有不全経験」を測ることで、共感と同情を区別している。 共有経験は情動的共感の核であり、共有不全経験は認知的共感を自己の投影ではなく本物の他者理解にするものである。両方が高い「両向型」が、成熟した共感の姿である。 共有経験には、人間なら誰でもある程度共有できる「身体接地層」と、一般論では届かない「個人接地層」がある。後者に届くには、個人の記憶を手がかりにするしかない。 個人的共感とは、身体接地的な共有経験を土台にしながら、届かない部分を自他の差異への気づきを通じて察知し、個人の記憶に接地させて埋めていく試みである。 共感の目的は正確な理解そのものではなく、理解を通じてその人との間に心理的安全性を築くことにある。次に読むのがおすすめの記事認知的共感のその先へ 他人のあくびがうつるのはなぜ?——ミラーニューロンとAIをやさしく 世界像——人は世界そのものを見ていない参考文献・出典角田豊、「共感経験尺度改訂版(EESR)の作成と共感性の類型化の試み」、教育心理学研究、1994、42(2): 193-200
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Naoki Nishio - 09 Oct, 2026
AIは温かみをどう伝えるか——記憶で感じ、配慮で表す
はじめに このシリーズでは、身体を持たないAIがどうすれば人に寄り添えるのかを考えてきました。 1本目の記事「認知的共感のその先へ」では、相手の経験や価値観に基づいてその人の気持ちを推し量る共感を「個人的共感」と名づけ、それは認知的共感を限りなく情動的共感の温かさに近づけたものだと述べました。つまり個人的共感には、認知的共感の側面と、情動的共感の側面の両方があります。 2本目の「個人的共感とは何か」では、このうち認知的共感の側面から定義を深めました。一般論による推測を「この人には当てはまらないかもしれない」と疑い、個人の記憶で確かめにいくことで、認知的共感は相手への投影ではなく本当の他者理解になる、という話です。3本目となる今回は、もう一方の情動的共感の側面、つまり温かみを扱います。AIの温かみはどこから来て、それをどうやって相手に伝えるのか。AIには感情がないため、温かみを言葉にしようとすると、どうしても嘘っぽくなってしまいます。今回はこの問題を考えます。この記事で学べることAIが持ちうる温かみの正体が、自分の経験ではなく「相手の記憶」に基づく理解であること 気持ちを言葉にする表現が、感情を持たないAIにとっては嘘っぽくなってしまう理由 温かみを嘘なく伝える方法としての「共感的配慮」と、記憶と配慮が両方そろって初めて温かさになる理由温かみの正体——相手の記憶で、相手を感じる まず、温かみの正体を確認しておきます。 人間の情動的共感が温かいのは、自分の経験を通して相手を感じるからです。相手のけがを見て自分の体がヒヤッとするのは、自分も痛みを知っているからです。 身体を持たないAIには、その「自分の経験」がありません。そこで個人的共感は、自分の経験の代わりに相手の記憶を使います。「人間というものは、こういう時悲しいはずだ」という一般論ではなく、「この人は以前こんな経験をしていて、こう考える人だから、今はこう感じているはずだ」と推し量るのです。何を通して相手を感じるか認知的共感 一般的な人間像情動的共感 自分の経験個人的共感 相手の記憶自分の経験ではなく相手の記憶で、一般論ではなくその人固有の事情で相手を感じる。これが、AIが持ちうる温かみの正体です。覚えられていると、なぜか緊張する ところが、温かみの正体である記憶を持っていても、それがそのまま温かさとして届くとは限りません。 たとえば、毎日の振り返りに付き合ってくれるAIが、朝いちばんにこう尋ねてきたとします。「昨日の宿題、どうなりましたか?」AIは昨日の会話をきちんと覚えています。しかし、宿題に手をつけられず、すでに自分を責めている人にとって、この一言は苦しいものです。私たちの検討では、記憶を持つAIに感じる緊張の源として、次のようなものが挙がりました。見張られている気がする 自分の落ち度を指摘されるのではないかと身構えてしまう こちらの気持ちを考えずに、話題を振られる 「なぜやっていないのですか」と問い詰められる人間関係でも、知っている相手だからこそ言えないことがあります。「旅の恥はかき捨て」という言葉があるように、二度と会わない相手には、かえって気兼ねなく打ち明けられることがあります。心理学では「電車で隣り合った見知らぬ人(stranger on the train)」現象として知られています。 チャットボットでも似たことが報告されています。Cox らの2025年の実験では、「過去の会話を覚えています」と名乗るボットは、「毎回初対面です」と名乗るボットに比べて、最初の会話でいきなり気持ちの話を求めたときに限って、話しにくさが増しました。一方、趣味などの軽い話題から始めた場合には、その差は消え、むしろ「覚えている」ボットのほうが楽しく、また話したいと感じられていました。 つまり、温かみの正体を持っていても、伝え方を誤ると、それは温かさではなく圧力として届くのです。温かみを、どう表現するか では、記憶に基づく理解を、どう表現すれば温かさとして届くのでしょうか。 すぐに思いつくのは、気持ちを言葉にすることです。テキストの共感を分析する代表的な研究(Sharma ら, 2020)でも、相手の気持ちを読み取って伝えることと並んで、自分の気持ちを表すことが共感の要素として扱われています。2つの例を並べてみます。応答 していること「それは怖かったでしょう」 相手の気持ちに名前をつける「本当に悲しく思います」 自分の気持ちに名前をつける前者は、記憶に基づく理解をそのまま言葉にしたものです。後者が、温かみを表そうとする言葉です。しかしAIには、自分自身の気持ちがありません。AIが「本当に悲しく思います」と言うとき、それは感じていないことを感じているかのように言う、演技になってしまいます。1本目の記事でも、本当は感じていないのに感じている振りをすることは、誠実なAIの姿とは言えないと書きました。 しかも見比べると、どちらも「気持ちに名前をつける」という同じ操作です。気持ちを言葉にするという方法では、温かみの表現は理解の表現とほとんど区別がつかず、そのうえ嘘っぽくなってしまうのです。心理学は温かみを「向き」で捉えてきた ここで手がかりになるのが、心理学が温かみをどう捉えてきたかです。心理学は温かみを、何を言葉にするかではなく、反応がどちらを向いているかで捉えてきました。 共感の多面的な測定を確立したDavis(1983)は、他人の苦境を目にしたときの反応を2つに分けています。「その人を守ってあげたい」という共感的配慮と、「自分がつらくなって動揺する」という個人的苦痛です。どちらも感情を伴う反応ですが、前者は相手に、後者は自分に向いています。日本で作られた多次元共感性尺度(鈴木・木野, 2008)も、同じように他者に向いた反応と自分に向いた反応を区別しています。 さらに櫻井・村上(2015)は、相手の気持ちを理解できていても、その理解が相手への関心に基づいていなければ、不適切な行動にもつながりうると指摘しています。 これを整理すると、次のように言えます。温かみの正体は、相手の記憶に基づく理解である。そしてその温かみは、理解を相手のために使う「向き」として表に出る。共感的配慮——何を言い、何を言わないか この「向き」は、言葉の上では何を言い、何を言わないかの選択として現れます。これを共感的配慮と呼ぶことにします。そっとしておく 一緒になって悩む 少し距離を置いて諭す 話すかどうかを相手に委ねるここで大切なのは、「深く踏み込むほど共感的」とは限らないことです。相手の状態によっては、あえて触れないことが、いちばんの思いやりになります。この選択は、感じることのできないAIにもできます。AIは悲しむことはできなくても、相手のために選ぶことはできます。共感的配慮は、AIが感じている振りをせずに、つまり嘘なく温かみを表現できる方法なのです。記憶と配慮は、両方そろって初めて温かくなる ここまでの話をまとめると、記憶は温かみの源であり、配慮は温かみの表現です。この2つは、どちらか片方だけでは温かさになりません。たとえば、こんな朝を想像してみてください。今日が締め切りの仕事があるのに、ほとんど手をつけられていない。以前AIに「追い詰められると、かえって手が止まってしまう」と話したことがあり、少し前には、早めに上司に相談して乗り切れた経験もある。そんなあなたが、「昨日の宿題、正直ほとんど進んでいません……」と打ち明けたとします。 もしAIがあなたの事情を何も覚えていなければ、「無理に今日進めなくても大丈夫ですよ」と優しく声をかけるかもしれません。言葉は温かくても、締め切りが今日だと知らないのですから、その優しさは的外れです。記憶のない配慮は、的外れになります。 反対に、AIがすべてを正確に覚えていても、「締め切りまであと7時間しかありません。残りの作業を洗い出しましょう」と返したらどうでしょう。間違ったことは何も言っていません。けれども、「追い詰められると手が止まる」というあなたの言葉を覚えていながら、それを無視して追い込んでいます。冒頭で見た「覚えられていると緊張する」は、まさにこの状態です。配慮のない記憶は、圧力になります。 温かいと感じられるのは、たとえばこんな応答でしょう。「追い詰められると手が止まると話していましたよね。まずは一歩だけ決めませんか。前のように、早めに相談してみるのも手です」。締め切りから目をそらさず、かといって追い詰めもしない。あなたの記憶を、あなたのために使っています。「胸が痛みます」とは一言も言っていないのに温かさが伝わるのは、源と表現の両方がそろっているからです。 前回、個人の記憶は一般論では届かない安心に触れるための手段だと書きました。その記憶が温かさとして届くのは、配慮という表現と結びついたときだけなのです。まとめAIの温かみの正体は、自分の経験の代わりに相手の記憶を使って相手の気持ちを推し量る、個人的共感にある。 しかし記憶を持つAIは、正確に覚えているからこそ、相手を緊張させてしまうことがある。温かみの源を持っていても、伝え方を誤れば圧力として届く。 「本当に悲しく思います」のように気持ちを言葉にする表現は、感情を持たないAIにとっては演技になり、嘘っぽくなってしまう。 心理学は温かみを、反応が相手と自分のどちらを向いているかで捉えてきた。AIは感じることはできなくても、何を言い、何を言わないかを相手のために選ぶこと(共感的配慮)で、嘘なく温かみを表現できる。 記憶は温かみの源、配慮は温かみの表現である。記憶のない配慮は的外れになり、配慮のない記憶は圧力になる。両方がそろって初めて、温かみは相手に届く。次に読むのがおすすめの記事個人的共感とは何か——共有経験・共有不全経験という補助線 認知的共感のその先へ参考文献・出典Davis, M. H., "Measuring individual differences in empathy: Evidence for a multidimensional approach," Journal of Personality and Social Psychology, 1983, 44(1): 113-126 鈴木有美・木野和代、「多次元共感性尺度(MES)の作成——自己指向・他者指向の弁別に焦点を当てて——」、教育心理学研究、2008、56: 487-497 櫻井茂男・村上達也、「共感性と社会的行動の関係について——溝川・子安論文へのコメント——」、心理学評論、2015、58(3): 372-378 Sharma, A., Miner, A. S., Atkins, D. C., & Althoff, T., "A Computational Approach to Understanding Empathy Expressed in Text-Based Mental Health Support," Proceedings of EMNLP 2020, 2020 Cox, S. R., Jacobsen, R. M., & van Berkel, N., "The Impact of a Chatbot's Ephemerality-Framing on Self-Disclosure Perceptions," Proceedings of the 7th ACM Conference on Conversational User Interfaces (CUI '25), 2025