個人的共感とは何か——共有経験・共有不全経験という補助線
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Naoki Nishio - 11 Sep, 2026
はじめに
前回の記事「認知的共感のその先へ」では、身体を持たないAIが深い寄り添いに近づく道として、特定の個人の経験にAIの理解を接地させる手法を「個人的共感」と名づけました。 今回は、頭で理解する「認知的共感」と、体で感じる「情動的共感」のどちらが優れているという話ではなく、両方の視点が健全な寄り添いには欠かせないという話を発展させます。
この記事で学べること
- 「共有経験」と「共有不全経験」という2軸が、共感と同情をどう区別するのか
- 共有不全経験があってはじめて、認知的共感が自己の投影ではなく本物の他者理解になる理由
- 個人的共感の定義と、その目的が他者の正確な理解ではなく安心できる関係を構築することにあること
共感と同情を分けるもの——共有経験と共有不全経験
心理学者の角田豊は1994年、「共感経験尺度改訂版(EESR)」という質問紙を作りました。そこで測っているのは、一見すると単純な「相手の気持ちを共有できた経験(共有経験)」です。しかし角田は、これだけでは大事なものを測れないことに気づきます。
それは、共感する人と、単に同情する人を区別できないという問題です。同情する人も「相手と同じような気持ちになった経験」には高得点をつけます。ただし同情する人は、その体験を自己中心的な視点でしか捉えられていないため、実際には相手を理解できていません。「自分がそう感じた」ことに意味を見出しているだけで、相手が自分とは違う存在であるという認識が抜け落ちているのです。
そこで角田は、逆の問いを追加しました。「相手の気持ちがわからなかった経験(共有不全経験)」です。自分と他者の違いをきちんと認識できている人は、共有できなかった経験もはっきり自覚できます。一方、自己中心的な人は、そもそも「わからなかった」という経験自体が意識に上りにくいのです。
この2つの軸を組み合わせると、4つのタイプが見えてきます。

| タイプ | 共有経験 | 共有不全経験 | 意味 |
|---|---|---|---|
| 両向型 | 高い | 高い | 共感と差異の認識が両立している |
| 共有型 | 高い | 低い | 同情に近い。自他が未分化なまま「わかる」と感じやすい |
| 不全型 | 低い | 高い | — |
| 両貧型 | 低い | 低い | 情緒的なやりとりの経験自体が乏しい |
もっとも成熟した共感は「両向型」、つまり共有できたこともできなかったことも、両方きちんと自覚できている状態だというのが角田の主張です。
共有不全経験があってこそ、認知的共感は「本物」になる
このうち共有経験が情動的共感の核にあたることは分かりやすいと思います。相手と同じ感情を感じる、というそのままの意味だからです。一方で共有不全経験が、認知的共感の核となるはずです。
前回の記事では、認知的共感を「一般的な人間像に基づいて相手の感情を推し量る」ものだと説明しました。しかしこの推測には、いつの間にか固定化し、目の前の相手をその型に当てはめて終わってしまうという危険が常につきまといます。
共有不全経験は、この危険に対する歯止めです。「わかったつもりでいたが、実はわかっていなかった」という経験を自覚できることは、「いま理解していると思っている内容は、あくまで一般論や推測にすぎず、目の前のこの人そのものではないかもしれない」という認識を保ち続けていることの証だからです。この気づきを失わない限り、認知的共感は一般論の押しつけで終わらず、相手への投影ではなく本当の他者理解へと開かれ続けます。逆に、共有不全経験を自覚できないまま進む認知的共感は、どれほど理屈として整っていても、本物の他者理解とは呼べないのだと思います。
したがって両向型とは、「相手と共鳴しながらも、なお自分と相手の違いを見失わない」状態です。情動的共感と認知的共感、どちらか一方が優れているのではなく、この2つが調和して初めて、成熟した共感が成立する——前回、直感的に述べたことに、ここで心理測定的な裏付けが得られたことになります。
身体に接地した共感と、個人の記憶に接地した共感
ここでもう一つ、重要な補助線を加えます。共有経験には、実は接地する場所によって二つの層があるのではないか、という視点です。
- 身体接地層: 痛み、恐怖、喜びといった、人間である以上ある程度は誰もが共有できる反応。これは一般論――「普通、こういう時はこう感じるはずだ」という平均的な人間像に基づく推測――でもかなりの部分を網羅できます。
- 個人接地層: その人固有の経験や価値観に根ざした反応。多くの人には喜ばしい出来事が、ある人にとっては辛い記憶と結びついている、といった場合です。ここは一般論の外側にあるので、原理的に一般論では届きません。
身体を持たないAIが、常識的な言葉の推論だけである程度「それらしい」共感を示せてしまうのは、身体接地層が多くの部分を占めているからだと考えられます。しかし、本当にその人に寄り添うには、一般論では届かない個人接地層に踏み込む必要があります。そしてそこに踏み込む唯一の手段が、その人固有の記憶です。
この二層構造は、先ほどの共有経験・共有不全経験ともつながります。共有不全経験とは、いわば「身体接地層の一般論だけでは、この人には通用しないかもしれない」と気づく入口です。そこから実際に個人の記憶を手がかりに、その人固有の反応を確かめにいく――というのが、共感が深まっていく一連の流れだと考えられます。

- 身体接地層で仮説を立てる(一般論・共有経験)
- その仮説がこの人にそのまま当てはまるとは限らないと疑う(共有不全経験的な気づき)
- 個人の記憶に接地させて、その人固有の反応を確かめる(個人接地層)
個人的共感を定義する
以上を踏まえて、個人的共感を次のように定義し直します。
個人的共感とは、身体接地的な(一般論的な)共有経験を土台にしながら、そこで届かない部分を自他の差異への気づきを通じて察知し、個人の記憶に接地させて埋めていく試みである。
これは、情動的共感(共有経験)と認知的共感(共有不全経験による差異の認識)が両立した「両向型」を、記憶という具体的な手段によって実現しようとする試みだと言い換えることもできます。
共感の目的は理解することではなく、安心をつくること
ここまでは、共感が「正確に理解できているか」という問いを中心に考えてきました。しかし、正確な理解そのものは、実は目的ではなく手段ではないかと思います。
その人の経験に深く寄り添うことができれば、その人は「自分のことをちゃんとわかってもらえている」と感じられます。この感覚こそが、相手との間に心理的安全性を築きます。つまり個人的共感の目的は、正しい理解に到達することではなく、理解を通じてその人との間に安心できる関係を築くことにあるのだと思います。
まとめ
- 角田(1994)の共感経験尺度は、「共有経験」だけでなく「共有不全経験」を測ることで、共感と同情を区別している。
- 共有経験は情動的共感の核であり、共有不全経験は認知的共感を自己の投影ではなく本物の他者理解にするものである。両方が高い「両向型」が、成熟した共感の姿である。
- 共有経験には、人間なら誰でもある程度共有できる「身体接地層」と、一般論では届かない「個人接地層」がある。後者に届くには、個人の記憶を手がかりにするしかない。
- 個人的共感とは、身体接地的な共有経験を土台にしながら、届かない部分を自他の差異への気づきを通じて察知し、個人の記憶に接地させて埋めていく試みである。
- 共感の目的は正確な理解そのものではなく、理解を通じてその人との間に心理的安全性を築くことにある。
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参考文献・出典
- 角田豊、「共感経験尺度改訂版(EESR)の作成と共感性の類型化の試み」、教育心理学研究、1994、42(2): 193-200
アイキャッチ・図版は、特記のない限りAIで生成した画像を画像編集ソフトで加工して制作しています。人物・イベントの写真は実際に撮影したものです。