先日、会社でアラン・チューリングについての資料を目にしました。
名前はもちろん知っています。コンピューター科学の父と呼ばれる人で、「チューリングテスト」の生みの親。でも恥ずかしながら、元の論文は一度も読んだことがありませんでした。
いい機会なので、1950年に書かれたその論文を読んでみました。英語で30ページ近くあります。読み終えて驚いたのは、そこに書かれていたのが「テストのやり方」だけではなかったことです。チューリングは、75年後の私たちが使っているAIの姿を、かなり具体的に思い描いていました。
「機械は考えることができるか」を本気で問いかけた論文
論文のタイトルは「Computing Machinery and Intelligence(計算する機械と知能)」。哲学の学術誌『Mind』の1950年10月号に載りました。
書き出しは「機械は考えることができるか、という問いについて考えたい」という一文です。
ただ、チューリングはすぐにこの問いを脇に置きます。「考える」という言葉の意味を決めようとすると、話が終わらないからです。そこで彼が持ち出したのが「模倣ゲーム」でした。
質問する人が、姿の見えない2人の相手と文字だけでやりとりをします。片方は人間、片方は機械。質問する人は、どちらが機械かを当てようとします。機械が人間とほとんど見分けられないほど受け答えできるなら、その機械について「考えている」と言ってよいのではないか。これが、のちに「チューリングテスト」と呼ばれるようになる考え方です。
チューリングはこれより前の1936年に、どんな計算の手順でも1台でこなせる「万能機械」という考え方を発表していました。いまのコンピューターの理論的な土台です。その万能機械に、人間の知能まで乗せられるのか。1950年の論文は、そこへ踏み込んだものでした。
夢その1|50年後、機械は会話で人と見分けがつかなくなる
論文の中で、チューリングは自分の予想をはっきり書いています。
約50年後には、記憶容量が10の9乗ほどのコンピューターをプログラムして、模倣ゲームをうまくこなせるようにできると思う。平均的な質問者が5分間質問したあとで正しく見分けられる確率は、70%を超えないだろう。
(論文中の一節を筆者が訳したもの)
10の9乗というのは2進数の桁の数なので、いまの単位にするとおよそ125メガバイトです。スマートフォンの写真なら数十枚ぶん。その大きさで、人と見分けのつかない会話ができると考えていたわけです。
では、この予言は当たったのでしょうか。
2000年の時点では、まだでした。当時の会話プログラムは、少し話せばすぐに機械だと分かるものがほとんどでした。
大きく動いたのは、それから25年後です。2025年、カリフォルニア大学サンディエゴ校のキャメロン・ジョーンズとベンジャミン・バーゲンが、チューリングの設定にかなり忠実な実験の結果を発表しました。質問する人が人間とAIの両方と同時に5分間チャットし、どちらが人間かを判定します。1,000回を超えるゲームを行ったところ、GPT-4.5に「人間らしくふるまう」設定を与えた場合、73%の割合で人間だと判定されました。本物の人間よりも、AIのほうが人間らしく見えたのです。
1960年代の会話プログラム「ELIZA」で同じ実験をすると、23%でした。

記憶容量の見積もりは外れました。いまの大規模言語モデルは、125メガバイトよりはるかに大きい。時期も25年ずれています。それでも「5分話しても見分けがつかない機械」という予言の中身は、ほぼそのまま現実になりました。
夢その2|大人の脳ではなく「子どもの機械」を作って育てる
ただ、読んでいて私がいちばん心をつかまれたのは、予言の数字ではありませんでした。論文の終わりにある「学習する機械」の章です。
チューリングはこう書いています。
大人の心をまねるプログラムを作ろうとするのではなく、子どもの心をまねるプログラムを作ってはどうだろうか。それにふさわしい教育を受けさせれば、大人の脳が得られるはずだ。
(同上、筆者訳)
賢い機械を、最初から完成品として設計しなくていい。生まれたての状態に近い機械を作り、あとから教えて育てればいい。チューリングは、ほめることと叱ること、つまり報酬と罰を使って機械に教える方法まで考えていました。
この発想には前段があります。1950年の論文の2年前、チューリングは勤め先の英国国立物理学研究所に「Intelligent Machinery(知能機械)」という報告書を出していました。生前には公開されなかった文書です。そこで彼は、部品どうしがでたらめにつながった「組織化されていない機械」を考え、そのつながり方を教育によって整えていくというアイデアを書いています。赤ちゃんの大脳皮質も、そういう機械なのではないか、とも。
この報告書は、いまではニューラルネットワークの先駆けとして知られています。ばらばらの状態から始めて、たくさんの例を見せながら、つながりの強さを少しずつ調整していく。いまのAIの学び方そのものです。

もちろん、違いもあります。いまのAIは、人間の子どもとは比べものにならない量の文章を読んで育ちます。子どもとAIの学び方の差は、ことばの学び方の違いを取り上げた記事でも書きました。それでも「設計するより、育てる」という方向は、チューリングが75年前に指さしたとおりでした。
まだ叶っていない夢|会話ができることは、考えていることなのか
では、チューリングの夢はすべて叶ったのか。私はそうは思いません。
チューリングテストに合格したAIが、本当に「考えている」のかは、いまも決着がついていません。言葉のうえで人間らしくふるまえることと、内側で何かを感じたり理解したりしていることは、別の問題かもしれないからです。
チューリング自身も、この反論を論文で取り上げています。当時の脳神経外科医ジェファーソンによる「機械が、自分の感じたことをもとに詩や協奏曲を作れるようになるまでは、機械が脳と同じだとは認められない」という主張です。
チューリングの答えは、少し皮肉が効いていました。相手が本当に感じているかを確かめる方法がないのは、人間どうしでも同じだ。だから私たちは普段、誰もが考えているという「礼儀正しい取り決め」に従って暮らしている、と。
この問いは、75年たったいまも研究者を悩ませています。大阪大学の村田先生が寄稿してくださった人工意識のシリーズは、まさにこの先を考える試みです。会話ができるAIは、もう手に入りました。その内側に何があるのか、何が足りないのかは、まだ誰にも分かっていません。
「教える側も、すべては分かっていない」という一節
論文の中で、もう1つ、付箋を貼りたくなった一節があります。
学習する機械の大事な特徴は、教える側が、機械の内部で何が起きているかをほとんど知らないことが多いという点だ。それでも、生徒のふるまいをある程度は予測できるかもしれない。
(同上、筆者訳)
これは、いまのAIにそのまま当てはまります。大規模言語モデルを作った研究者でさえ、モデルの内部で何が起きているかを細かくは説明できません。それでもAIは育ち、私たちはそれを毎日使っています。
私は、この一節を少しやさしい気持ちで読みました。子どもを育てる親も、生徒を教える先生も、相手の頭の中がすべて分かっているわけではありません。分からないまま、ふるまいを見て、声をかけて、少しずつ一緒に進んでいく。チューリングが思い描いた「機械を育てる」関係は、案外そういうものだったのではないでしょうか。
やさしいAI研究所が考えたいのも、この関係です。AIを、命令に従うだけの道具としてではなく、人と一緒に育っていく相手として捉える。そのとき大事になるのは、正解を教え込むことより、相手を見守りながら関わり続けることだと考えています。
75年前の論文の、最後の一文
チューリングは、この論文を発表した4年後、41歳で亡くなりました。チャットで人と見分けがつかないAIも、ニューラルネットワークがここまで育った姿も、見ることはありませんでした。
論文は、こう締めくくられています。
ほんの少し先しか見えない。けれど、そこにやるべきことがたくさんあるのは見える。
(同上、筆者訳)
会社で何気なく目にした資料がきっかけで、75年前の論文を読みました。書かれていたのは昔話ではなく、いま私たちが向き合っている問いそのものでした。
少し先しか見えないのは、いまも同じです。やるべきことがたくさんあるのも、同じです。
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参考文献
- Turing, A. M.「Computing Machinery and Intelligence」Mind, 59(236), 433–460(1950年) / doi.org/10.1093/mind/LIX.236.433
- Turing, A. M.「Intelligent Machinery」英国国立物理学研究所への報告書(1948年執筆、没後に公開)
- Jones, C. R., & Bergen, B. K.「Large Language Models Pass the Turing Test」arXiv:2503.23674(2025年) / arxiv.org/abs/2503.23674
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