引っ越して最初の1週間、やたらと疲れませんでしたか。ゴミの日も、スーパーの棚の並びも、駅までの近道も、いちいち確かめないと分からない。仕事の量が増えたわけでもないのに、夜になるとぐったりしている。
あの疲れは、根性の問題ではありません。脳が「先が読めない環境」に置かれたときに起きる、生理的な消耗です。
やさしいAI研究所の顧問である京都大学名誉教授・乾敏郎先生の講演資料をもとに、脳科学から見たウェルビーイングを3回に分けてお届けします。第1回は、その土台になる「脳は予測器である」という考え方から。

プロフィール
乾 敏郎さん
京都大学 名誉教授
専門分野は認知神経科学、認知科学、計算論的神経科学。京都大学大学院文学研究科教授、京都大学大学院情報学研究科教授を歴任。現在は京都大学名誉教授、金沢工業大学客員教授、児童発達支援・放課後等デイサービスUNICO学術顧問、やさしいAI研究所顧問を務める。20の学会賞を受賞。論文数446編(うち英語論文115編)のほか、著書・訳書など75冊を出版している。
「満たされた状態」を、脳の言葉に置き換える
ウェルビーイングの出発点としてよく引かれるのが、1948年に発効したWHO憲章の健康の定義です。健康とは病気でないことではなく、「肉体的にも、精神的にも、そして社会的にも、すべてが満たされた状態」だとされています。この満たされた状態が、そのままウェルビーイングにあたります。
ただ、この定義は目指す方向を示してくれる一方で、日々の判断にはあまり効きません。身体の健康、感情の充足、人とのつながり、生きる目的。どれも大切だと分かっていても、では明日の会議をどう変えればいいのかまでは降りてこない。
乾先生の講演は、ここに脳科学からの補助線を引きます。脳にとって「満たされた状態」とは、予測がよく当たっている状態のこと。この一文が、シリーズ全体を貫く軸になります。
脳は世界を見ていない、予測している
私たちは目を開ければ世界がそのまま見えていると感じます。ところが網膜に届いているのは、上下逆さまで、中心以外はぼやけた二次元の光にすぎません。安定したカラーの世界は、その乏しい材料から脳が組み立てた推論の結果です。
この組み立て方を説明するのが「予測符号化」という考え方です。1999年にラオとバラードが計算モデルとして定式化し、2010年代に入って脳科学の主流になってきました。乾先生は講演で、脳の働きを4つに整理しています。脳は環境から来る感覚信号を絶えず、しかも無意識に予測している。予測と実際の信号のズレが小さくなるように予測を修正する。私たちが見ている世界は、そうやって修正された予測信号のほうである。そして身体を動かして環境を変えることは、脳が立てた予測を自分で実現しにいく行為でもある。
このズレが「予測誤差」です。錯視や思い込みがなぜ起きるのかについては、同じ長さの線が違って見えるのはなぜ?で詳しく書きました。
予測が当たる場所では、脳は休める
冒頭の引っ越しに戻ります。新しい街では、脳の予測がことごとく外れます。この道を曲がれば駅、この時間なら空いている、という蓄積がまだない。予測誤差が大きいので、脳は修正のために常時フル稼働することになります。それが疲労の正体です。
裏を返すと、環境が自分の予測どおりに動いていると感じられるとき、人はいちばん安心できます。職場でも、家庭でも、人づきあいでも、この感覚が続いている状態。乾先生は、それこそがウェルビーイングの基盤だと位置づけます。
半年住めば、同じ街が疲れなくなる。街は変わっていません。変わったのは、脳の予測の精度です。
刺激が常に手に入る状態は、ウェルビーイングではない
ここで一つ、区別しておきたいことがあります。「予測どおり」が心地よいなら、欲しい刺激が常に手に入る環境が最高ということになりそうです。実際、依存はまさにその形をしています。次に何が来るかは完全に分かっているし、確実に満たされる。
乾先生はこれを「タコツボ状態」と呼び、ウェルビーイングとは別物だと切り分けます。予測が当たり続けているように見えて、その予測が通用する範囲がどんどん狭くなっている。外の世界は変化し続けるので、いずれ予測は効かなくなり、そのとき人は何も持っていない状態で放り出されます。
短期的な幸福と長期的なウェルビーイングの分かれ目は、ここにあります。大事なのは予測が当たることそのものではなく、環境が変わったときに新しい安定へ移っていけること。幸福を刺激の量で測るのをやめて、予測の効く範囲を広げ続けられているかで測る。今回のシリーズで一番持ち帰ってほしいのは、この見方の切り替えです。
アロスタシス、先回りして整える力
予測は、外の世界だけに向いているのではありません。身体の中にも働いています。
これから走ろうと思った瞬間、心拍数と体温は走り出す前に上がりはじめます。朝、起きようとすると、身体を起こす前に血圧が上がる。乱れてから戻すのではなく、乱れる前に整えているわけです。この仕組みをアロスタシスと呼びます。
体温や血糖を一定に保つホメオスタシスが「ズレたら戻す」だとすれば、アロスタシスは「ズレる前に動く」。将来の生理的・代謝的な需要を予測して先回りで調整し、長期的に誤差を最小化する働きです。詳しくは揺らぎながら安定する|アロスタシスとホメオスタシスでも取り上げました。
つまり脳は、外の環境と身体の内側の両方について、予測を立てては修正するということを休みなく続けています。
予測すべき環境は、3つある
私たちが予測している「環境」は、実は3種類に分けられます。ひとつは物理環境。道の形や物の位置など、比較的読みやすい相手です。ふたつ目は内部環境、つまり内臓や身体の状態で、ストレス反応の出どころになります。
そして三つ目が社会環境です。他者が何を考え、どう感じ、次にどう動くのか。これがいちばん読みにくい。会議で上司の反応が読めないときの居心地の悪さは、脳にとっては見知らぬ街を歩いているのと同じ状態です。
乾先生は、この社会環境の不確実性を下げる働きこそが共感だと言います。共感は性格のやさしさというより、相手を理解して予測を立て直す作業に近い。ウェルビーイングを個人の心の持ちようで終わらせず、人と人のあいだの問題として扱えるようになるのは、この一歩からです。
まとめ
- 脳は感覚信号を絶えず予測し、実際とのズレ(予測誤差)を小さくするように修正し続けている。私たちが見ている世界は、修正された予測のほう
- ウェルビーイングの基盤は「環境が自分の予測どおりに動いている」感覚。引っ越し直後の疲れは、予測が外れ続けることによる脳の消耗
- 欲しい刺激が確実に手に入る状態は短期的な幸福で、長期的なウェルビーイングとは違う。分かれ目は、環境が変わったときに新しい安定へ移っていけるかどうか
次回は、社会環境の話に踏み込みます。同じ働き方をしていても、消耗する人と消耗しない人がいる。その差を「非ゼロ和」というキーワードから読み解きます。
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やさしいAI研究所ブログ|共創するウェルビーイング シリーズ(全3回)第1回
本記事は、やさしいAI研究所顧問・乾敏郎先生(京都大学名誉教授)の講演資料をもとに編集部が構成したものです。「やさしいAI」の研究や活動に関心をお持ちの方は、毎週土曜日のオープンラボへお気軽にどうぞ。やさしいAI研究所の全体像はコーポレートサイトからご覧いただけます。
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