Showing Posts From
乾先生シリーズ
「わかってもらえた」が組織を強くする|心理的安全性と共感の伝え方
会議で、言いかけてやめたことはありませんか。的外れかもしれない、いま言うと話が長くなる、たぶん自分が分かっていないだけだ。そう考えているうちに議題が進み、結局その疑問は口から出ないままになる。 あとから振り返ると、あれは案外まっとうな疑問だった。そういう場面が積み重なるチームと、そうでないチームがあります。やさしいAI研究所の顧問である京都大学名誉教授・乾敏郎先生の講演資料をもとに、脳科学から見たウェルビーイングを3回に分けてお届けしています。最終回は、この話を職場に持ち込みます。プロフィール乾 敏郎さん京都大学 名誉教授専門分野は認知神経科学、認知科学、計算論的神経科学。京都大学大学院文学研究科教授、京都大学大学院情報学研究科教授を歴任。現在は京都大学名誉教授、金沢工業大学客員教授、児童発達支援・放課後等デイサービスUNICO学術顧問、やさしいAI研究所顧問を務める。20の学会賞を受賞。論文数446編(うち英語論文115編)のほか、著書・訳書など75冊を出版している。第1回ではウェルビーイングを予測誤差の小ささとして捉え、第2回では非ゼロ和の関係が脳の脅威予測を下げることを見ました。 優秀な人を集めれば強いチームになる、は外れた Googleが2012年に始めた「プロジェクト・アリストテレス」という社内研究があります。エンジニアリング115、営業65の約180チームを数年かけて調べ、何が高い成果を生むのかを探ったものです。 当初の仮説は素朴でした。優秀な人材を集めれば最強のチームになるはずだ、というものです。ところがデータはそれを支持しませんでした。個々のメンバーの能力や経歴の組み合わせからは、成果の差がうまく説明できなかった。 結論は、チームの成功は誰がいるかではなく、どう機能するかで決まる、というものでした。そして機能を左右する最大の要因として浮かび上がったのが、心理的安全性です。 心理的安全性は、気分ではなく共有された信念 この言葉を定義したのは、組織行動学者のエイミー・エドモンドソンです。1999年の論文で「対人的なリスクを取っても安全だと、チームのメンバーが共有している信念」と定めました。実務では、罰される不安なしに異論も未完成のアイデアも素朴な質問も口に出せる状態、という言い方で使われます。 3つの要素に分けると輪郭がはっきりします。失敗やミスや反論をしても責められる恐れがないこと。未完成のアイデアや素朴な疑問を歓迎する空気があること。そしてそれが個人の感覚ではなく、チーム全体の認識として定着していること。最後の点が肝心で、自分ひとりが安心しているだけでは心理的安全性とは呼びません。 乾先生の講演資料より前2回の言葉に置き換えると、これは**「ここでは何を言っても大丈夫」という予測が、全員のあいだで立っている状態**です。予測が立たない職場では、発言のたびに脳が反応を先読みしてコストを払うことになります。会議で言いかけてやめるのは、慎重さというより、予測誤差の大きさに対する当然の反応です。共感は、感じるだけでは機能しない では、その予測はどうやって立つのか。前回、共感的な姿勢には相手を理解しようとする意図と、その理解を伝わる形で示す行為の両方が要ると書きました。後半がないと、相手の脳には何も届きません。 乾先生の講演資料は、職場で共感を届ける方法を3つ挙げています。 ひとつ目は感情のラベリングです。相手の気持ちを推測して、言葉にして返す。「それは悔しかったですね」「それは不安でしたよね」と声に出すと、相手は「わかってもらえた」と感じます。言語コミュニケーションの核心にあたる部分です。 ふたつ目は非言語です。うなずく、表情で反応する、身体を相手のほうへ向ける。あなたの話を聴いているというメッセージは、表情や動作や声のトーンから伝わります。言葉より雄弁な場面のほうが多いくらいです。 三つ目はミラーリングで、相手の仕草をさりげなく模倣する技法です。髪に触れる、足を組むといった動作を、気づかれない程度に合わせる。多くの実験で有効性が確認されていますが、気づかれないことが絶対条件になります。真似だと分かった瞬間に、効果は逆に振れます。落ち着いている人は、周囲の脳のコストを下げている ここでウェルビーイングの話が組織の話につながります。 自分の身体や感情の状態が安定していて、環境とのズレをうまく調整できている人は、周囲にとって読みやすい存在になります。感情の起伏が予測できる。行動に一貫性がある。反応の幅が狭く、怒鳴ったり急に攻撃したりしない。乾先生は、そういう人は周りの脳にとって環境のノイズが低い状態をつくると表現します。 ノイズが低い相手の前では、人はこう感じます。この人の前なら、失敗しても大丈夫だ。心理的安全性は、制度やルールより先に、まずこの手触りから生まれます。そこから意見が出やすくなり、ミスが早く共有され、探索的な行動が増えて創造性が上がっていく。 乾先生の講演資料より逆の場合も、同じ理屈で説明できます。感情や行動の振れ幅が大きいと、周囲は次にどう反応されるか読めなくなる。ネガティブな解釈が伝染し、意図が読めないぶん共同作業のタイミングも合いにくくなる。ただしこれは、誰かを不安定だと名指しするための道具ではありません。その人のウェルビーイングが下がっていること自体が、チームが受け取るべき最初のサインだと考えるほうが役に立ちます。責める対象ではなく、支える対象として扱う。 「最近どうですか」では、たどり着けない 最後に、明日から変えられることをひとつ。 「最近どうですか?」と聞くと、たいてい「ぼちぼちです」が返ってきます。何を答えればいいのか分からない質問だからです。代わりに、乾先生が講演の締めくくりに置いていたのはこちらでした。 「最近、どんなことを感じていますか?」 聞いているのは状況ではなく、感情です。この職場では自分の感情は否定される、と脳が予測している状態ではストレス反応が起きます。ここでは気持ちを話しても大丈夫だと感じられれば、予測が安定し、人は本来の力を出せるようになる。 合理だけでは人は動きません。感情に寄り添うことは、やさしさという以前に、安心の土台をつくる技術です。人は「わかってもらえた」と感じてから、ようやく動けるようになります。 まとめGoogleが約180チームを調べたプロジェクト・アリストテレスの結論は、チームの成功は誰がいるかではなくどう機能するかで決まり、最大の要因は心理的安全性だというものだった 心理的安全性は「ここでは何を言っても大丈夫」という予測がチーム全体で共有されている状態。共感は感じるだけでは届かず、感情のラベリング・非言語・ミラーリングという形で伝えて初めて機能する 状態が安定している人は周囲にとってノイズの低い環境になり、他者の予測誤差とストレスを下げる。ウェルビーイングは個人の問題ではなく、チームの資源として働く3回を通して見えてきたのは、ウェルビーイングが気分の話ではなく、予測という一本の線でつながっているということでした。自分の身体を先回りして整えること、他者との関係を非ゼロ和に保つこと、そして相手にとって読みやすい存在でいること。どれも、誰かの脳の負担を下げる働きをしています。 共創するウェルビーイングという言葉は、たぶんそういう意味です。安心は一人でつくるものではなく、互いの予測をすり合わせながら育てていくものだと思います。次に読むのがおすすめの記事引っ越し直後がしんどいのはなぜ?|脳の予測とウェルビーイング 棋士はなぜ消耗しないのか|非ゼロ和の活動が脳を安心させる 答えるAIから、理解するAIへ——AIは人を理解できるのかやさしいAI研究所ブログ|共創するウェルビーイング シリーズ(全3回)第3回・完 本記事は、やさしいAI研究所顧問・乾敏郎先生(京都大学名誉教授)の講演資料をもとに編集部が構成したものです。シリーズはこれで完結です。続きの議論を一緒に深めたい方は、毎週土曜日開催のオープンラボへぜひお越しください。やさしいAI研究所の研究活動や最新の取り組みについてはコーポレートサイトからご覧いただけます。
棋士はなぜ消耗しないのか|非ゼロ和の活動が脳を安心させる
将棋の対局は、勝ちと負けしかありません。一方が得れば、その分だけ他方が失う。経済学でいう完全なゼロ和ゲームです。しかも棋士は、それを何十年も続けます。 理屈のうえでは、これほど消耗する職業もなさそうです。ところが実際の棋士は、勝負のきびしさとは別のところで、かなり豊かに見える。やさしいAI研究所の顧問である京都大学名誉教授・乾敏郎先生の講演資料をもとに、脳科学から見たウェルビーイングを3回に分けてお届けしています。第2回は、脳の予測が社会環境に向けられたときの話です。プロフィール乾 敏郎さん京都大学 名誉教授専門分野は認知神経科学、認知科学、計算論的神経科学。京都大学大学院文学研究科教授、京都大学大学院情報学研究科教授を歴任。現在は京都大学名誉教授、金沢工業大学客員教授、児童発達支援・放課後等デイサービスUNICO学術顧問、やさしいAI研究所顧問を務める。20の学会賞を受賞。論文数446編(うち英語論文115編)のほか、著書・訳書など75冊を出版している。前回は、ウェルビーイングを「予測誤差が小さい状態」として捉え直しました。同じ働き方をしていても、消耗する人としない人がいる。その差は、どこから来るのか。 幸福を高める活動と、損なう活動 手がかりになるのが、Mark Miller、Julian Kiverstein、Erik Rietveld による2022年の論文「The Predictive Dynamics of Happiness and Well-Being」(Emotion Review 14巻1号)です。前回登場した予測処理の枠組みを、そのまま幸福の説明に使った研究として知られています。 この論文が置く区別が、非ゼロ和とゼロ和です。他者との協力、利他的な行動、家族や友人との関係、社会への貢献。こうした活動は、誰かが得たぶん誰かが失うという形をしていません。一方で、純粋な金銭的利益の追求はウェルビーイングを損なうとされます。乾先生の講演資料は、ここに社会的な競争心、短期的な快楽、同じことの反復に固まった習慣を加えて整理していました。 乾先生の講演資料より論文の主張はシンプルです。幸福を高めるのは非ゼロ和的な活動で、損なうのはゼロ和的な活動。非ゼロ和の活動は行動のレパートリーを広げ続けるので、環境が変わっても新しい安定へ移っていける。前回の「予測の効く範囲を広げられるか」という話と、そのままつながります。脳から見ると、世界の見え方が変わる なぜ非ゼロ和だと消耗しないのか。乾先生の講演資料は、その理由を脳の予測から説明します。 ゼロ和の世界に立つと、他者は潜在的な敵になります。社会は奪い合いの場で、油断すれば取られる。この前提で動く脳は、常に脅威を予測し続けることになります。しかも同じ競争パターンを繰り返すうちに行動は硬直し、快楽刺激の反復に寄っていく。前回の「タコツボ状態」に近い形です。 非ゼロ和の世界では、他者は協力者になり、社会は相互支援の場になります。脅威の予測が減れば、ストレス反応も下がる。安心感がそのまま脳のコストの低さとして現れます。 脳が求めているのは、刺激の多い環境ではありません。予測しやすく、安全で、安定した環境です。棋士の一日を分解してみる 冒頭の問いに戻ります。棋士の活動のうち、ゼロ和なのは対局そのものだけです。 師匠と弟子の関係があり、研究会や合宿で手を持ち寄り、共同で定跡を掘る。ファンと交流し、テレビや配信で解説をし、普及活動に出向く。対局のあとには仲間との雑談がある。こうして並べてみると、棋士の日々の大半は非ゼロ和です。乾先生の表現を借りれば、棋士は「ゼロ和ゲームを核に、非ゼロ和の社会の中で生きている」。 乾先生の講演資料よりこの構造は、多くの仕事にそのまま当てはまります。営業の数字は椅子取りゲームでも、その周りにある同行、引き継ぎ、後輩の相談、顧客との長い付き合いは非ゼロ和です。消耗を決めているのは、活動の中心にあるゼロ和の量ではなく、その周りに非ゼロ和の層がどれだけ育っているか。ノルマそのものを消せない職場でも、ここは動かせます。 つながりは、あったほうがいいものではない ここまでの話は、人づきあいの多い人が得をするという意味ではありません。心理学の側から見ると、つながりはもっと根本的なものとして扱われています。 マズローの欲求階層では、第3階層に「所属と愛の欲求」が置かれます。仲間として受け入れられたいという欲求は、安全が確保されたあとに立ち上がる基本的なものだという整理です。デシとライアンの自己決定理論はさらに踏み込み、人が内側からやる気を出すために欠かせない3つの欲求として、自律性、有能感、そして関係性を挙げます。 その鍵になるのが共感的理解、つまり「わかってもらえた」という感覚です。乾先生は共感的な姿勢を、相手の内側を理解しようとする意図と、その理解を相手に伝わる形で示す行為の両方だと定義します。感じているだけでは足りない、という部分は次回の中心テーマになります。 自分の内側が分かるほど、相手も分かる では共感の力は、どうすれば育つのか。講演資料が挙げていたのは、意外にも一人でやる訓練でした。 マインドフルネス瞑想です。呼吸や身体の感覚を、良い悪いの判断をはさまずにただ観察する。これを繰り返すと、自分の内側の感情や身体感覚の小さな変化を正確に拾えるようになります。そしてその精度が上がった脳は、他者の感情の微細な変化にも気づけるようになる。ただしこの経路は、まだ決着がついていません。心拍を数える課題のような客観指標で測ると、瞑想の経験者とそうでない人に差が出なかったという報告もあります。 自分の予測誤差を細かく読める人が、他人の予測誤差も読める。共感が生まれつきの性格ではなく、鍛えられる知覚の精度として説明されている点が、この考え方のおもしろいところです。 まとめMiller らの2022年の論文は、幸福を高めるのは協力や利他といった非ゼロ和の活動で、損なうのは競争や短期的快楽といったゼロ和の活動だと整理した ゼロ和の前提で動く脳は他者を潜在的な敵として脅威を予測し続ける。非ゼロ和の関係では脅威予測が減り、ストレス反応も下がる 棋士の仕事の核は完全なゼロ和だが、日々の大半は師弟関係や研究会という非ゼロ和で満たされている。消耗の差を決めるのは、ゼロ和の周りに非ゼロ和の層がどれだけあるか最終回は、この話を職場に持ち込みます。Googleが約180チームを調べて突き止めた「強いチームの条件」と、共感を相手に届けるための具体的なやり方を見ていきます。次に読むのがおすすめの記事引っ越し直後がしんどいのはなぜ?|脳の予測とウェルビーイング 答えるAIから、理解するAIへ——AIは人を理解できるのか 他人のあくびがうつるのはなぜ?——ミラーニューロンとAIをやさしくやさしいAI研究所ブログ|共創するウェルビーイング シリーズ(全3回)第2回 本記事は、やさしいAI研究所顧問・乾敏郎先生(京都大学名誉教授)の講演資料をもとに編集部が構成したものです。「やさしいAI」の研究や活動に関心をお持ちの方は、毎週土曜日のオープンラボへお気軽にどうぞ。やさしいAI研究所の全体像はコーポレートサイトからご覧いただけます。
引っ越し直後がしんどいのはなぜ?|脳の予測とウェルビーイング
引っ越して最初の1週間、やたらと疲れませんでしたか。ゴミの日も、スーパーの棚の並びも、駅までの近道も、いちいち確かめないと分からない。仕事の量が増えたわけでもないのに、夜になるとぐったりしている。 あの疲れは、根性の問題ではありません。脳が「先が読めない環境」に置かれたときに起きる、生理的な消耗です。やさしいAI研究所の顧問である京都大学名誉教授・乾敏郎先生の講演資料をもとに、脳科学から見たウェルビーイングを3回に分けてお届けします。第1回は、その土台になる「脳は予測器である」という考え方から。プロフィール乾 敏郎さん京都大学 名誉教授専門分野は認知神経科学、認知科学、計算論的神経科学。京都大学大学院文学研究科教授、京都大学大学院情報学研究科教授を歴任。現在は京都大学名誉教授、金沢工業大学客員教授、児童発達支援・放課後等デイサービスUNICO学術顧問、やさしいAI研究所顧問を務める。20の学会賞を受賞。論文数446編(うち英語論文115編)のほか、著書・訳書など75冊を出版している。「満たされた状態」を、脳の言葉に置き換える ウェルビーイングの出発点としてよく引かれるのが、1948年に発効したWHO憲章の健康の定義です。健康とは病気でないことではなく、「肉体的にも、精神的にも、そして社会的にも、すべてが満たされた状態」だとされています。この満たされた状態が、そのままウェルビーイングにあたります。 ただ、この定義は目指す方向を示してくれる一方で、日々の判断にはあまり効きません。身体の健康、感情の充足、人とのつながり、生きる目的。どれも大切だと分かっていても、では明日の会議をどう変えればいいのかまでは降りてこない。 乾先生の講演は、ここに脳科学からの補助線を引きます。脳にとって「満たされた状態」とは、予測がよく当たっている状態のこと。この一文が、シリーズ全体を貫く軸になります。脳は世界を見ていない、予測している 私たちは目を開ければ世界がそのまま見えていると感じます。ところが網膜に届いているのは、上下逆さまで、中心以外はぼやけた二次元の光にすぎません。安定したカラーの世界は、その乏しい材料から脳が組み立てた推論の結果です。 この組み立て方を説明するのが「予測符号化」という考え方です。1999年にラオとバラードが計算モデルとして定式化し、2010年代に入って脳科学の主流になってきました。乾先生は講演で、脳の働きを4つに整理しています。脳は環境から来る感覚信号を絶えず、しかも無意識に予測している。予測と実際の信号のズレが小さくなるように予測を修正する。私たちが見ている世界は、そうやって修正された予測信号のほうである。そして身体を動かして環境を変えることは、脳が立てた予測を自分で実現しにいく行為でもある。 乾先生の講演資料よりこのズレが「予測誤差」です。錯視や思い込みがなぜ起きるのかについては、同じ長さの線が違って見えるのはなぜ?で詳しく書きました。 予測が当たる場所では、脳は休める 冒頭の引っ越しに戻ります。新しい街では、脳の予測がことごとく外れます。この道を曲がれば駅、この時間なら空いている、という蓄積がまだない。予測誤差が大きいので、脳は修正のために常時フル稼働することになります。それが疲労の正体です。 裏を返すと、環境が自分の予測どおりに動いていると感じられるとき、人はいちばん安心できます。職場でも、家庭でも、人づきあいでも、この感覚が続いている状態。乾先生は、それこそがウェルビーイングの基盤だと位置づけます。 半年住めば、同じ街が疲れなくなる。街は変わっていません。変わったのは、脳の予測の精度です。 刺激が常に手に入る状態は、ウェルビーイングではない ここで一つ、区別しておきたいことがあります。「予測どおり」が心地よいなら、欲しい刺激が常に手に入る環境が最高ということになりそうです。実際、依存はまさにその形をしています。次に何が来るかは完全に分かっているし、確実に満たされる。 乾先生はこれを「タコツボ状態」と呼び、ウェルビーイングとは別物だと切り分けます。予測が当たり続けているように見えて、その予測が通用する範囲がどんどん狭くなっている。外の世界は変化し続けるので、いずれ予測は効かなくなり、そのとき人は何も持っていない状態で放り出されます。 短期的な幸福と長期的なウェルビーイングの分かれ目は、ここにあります。大事なのは予測が当たることそのものではなく、環境が変わったときに新しい安定へ移っていけること。幸福を刺激の量で測るのをやめて、予測の効く範囲を広げ続けられているかで測る。今回のシリーズで一番持ち帰ってほしいのは、この見方の切り替えです。 アロスタシス、先回りして整える力 予測は、外の世界だけに向いているのではありません。身体の中にも働いています。 これから走ろうと思った瞬間、心拍数と体温は走り出す前に上がりはじめます。朝、起きようとすると、身体を起こす前に血圧が上がる。乱れてから戻すのではなく、乱れる前に整えているわけです。この仕組みをアロスタシスと呼びます。 体温や血糖を一定に保つホメオスタシスが「ズレたら戻す」だとすれば、アロスタシスは「ズレる前に動く」。将来の生理的・代謝的な需要を予測して先回りで調整し、長期的に誤差を最小化する働きです。詳しくは揺らぎながら安定する|アロスタシスとホメオスタシスでも取り上げました。 乾先生の講演資料よりつまり脳は、外の環境と身体の内側の両方について、予測を立てては修正するということを休みなく続けています。予測すべき環境は、3つある 私たちが予測している「環境」は、実は3種類に分けられます。ひとつは物理環境。道の形や物の位置など、比較的読みやすい相手です。ふたつ目は内部環境、つまり内臓や身体の状態で、ストレス反応の出どころになります。 そして三つ目が社会環境です。他者が何を考え、どう感じ、次にどう動くのか。これがいちばん読みにくい。会議で上司の反応が読めないときの居心地の悪さは、脳にとっては見知らぬ街を歩いているのと同じ状態です。 乾先生は、この社会環境の不確実性を下げる働きこそが共感だと言います。共感は性格のやさしさというより、相手を理解して予測を立て直す作業に近い。ウェルビーイングを個人の心の持ちようで終わらせず、人と人のあいだの問題として扱えるようになるのは、この一歩からです。 まとめ脳は感覚信号を絶えず予測し、実際とのズレ(予測誤差)を小さくするように修正し続けている。私たちが見ている世界は、修正された予測のほう ウェルビーイングの基盤は「環境が自分の予測どおりに動いている」感覚。引っ越し直後の疲れは、予測が外れ続けることによる脳の消耗 欲しい刺激が確実に手に入る状態は短期的な幸福で、長期的なウェルビーイングとは違う。分かれ目は、環境が変わったときに新しい安定へ移っていけるかどうか次回は、社会環境の話に踏み込みます。同じ働き方をしていても、消耗する人と消耗しない人がいる。その差を「非ゼロ和」というキーワードから読み解きます。次に読むのがおすすめの記事答えるAIから、理解するAIへ——AIは人を理解できるのか 同じ長さの線が違って見えるのはなぜ?|予測する脳とAIのハルシネーションをやさしく 揺らぎながら安定する——アロスタシス、ホメオスタシスとAIをやさしくやさしいAI研究所ブログ|共創するウェルビーイング シリーズ(全3回)第1回 本記事は、やさしいAI研究所顧問・乾敏郎先生(京都大学名誉教授)の講演資料をもとに編集部が構成したものです。「やさしいAI」の研究や活動に関心をお持ちの方は、毎週土曜日のオープンラボへお気軽にどうぞ。やさしいAI研究所の全体像はコーポレートサイトからご覧いただけます。
答えるAIから、理解するAIへ——AIは人を理解できるのか
このたび、やさしいAI研究所では、顧問を務める乾 敏郎さんとの対談を行いました。ChatGPTをはじめとする生成AIが「質問に答える存在」として私たちの生活に広まるなか、これからのAIに本当に求められる力とは何か——「人を理解するAI」というテーマについて、じっくりとお話を伺いました。 そのキーワードは、「理解するAI」です。本記事では、対談の内容をご紹介しながら、その考え方について掘り下げていきます。プロフィール乾 敏郎さん京都大学 名誉教授専門分野は認知神経科学、認知科学、計算論的神経科学。京都大学大学院文学研究科教授、京都大学大学院情報学研究科教授を歴任。現在は京都大学名誉教授、金沢工業大学客員教授、児童発達支援・放課後等デイサービスUNICO学術顧問、やさしいAI研究所顧問を務める。20の学会賞を受賞。論文数446編(うち英語論文115編)のほか、著書・訳書など75冊を出版している。LLMだけでは十分ではない インタビュアー現在のLLMについては、どのようにお考えでしょうか。乾先生LLMは使えばいいんです。ただ、LLMが持っていない特性をどう作るかということの方が重要だと思っています。生成AIの性能向上が注目される中、乾先生が強調されたのは、LLMをより大きく、より賢くすることではありませんでした。むしろ重要なのは、LLMだけでは実現できない機能をAIに持たせることです。その機能とは、「人を理解すること」であると乾先生は説明されます。 AIに必要なのは「質問する力」インタビュアーその『LLMにはない特性』とは、どのようなものでしょうか。乾先生相手の不確実性を最小化するような質問を投げかけることが一番大事なんです。現在の生成AIは、与えられた質問に対して回答を生成することを得意としています。一方、人間同士のコミュニケーションでは、質問を重ねながら相手を理解していきます。相手が何を考え、何に困り、何を求めているのか、を理解するために、人は自然と問いを投げかけています。乾先生は、この「質問する能力」こそ、これからのAIに求められる本質的な能力であると考えています。 これからのAIに求められる自発的に質問し、不確実性を解消していく能力を捉える上で、まさにそのメカニズムを脳科学や認知科学の観点からモデル化したのが、Karl J. Fristonらによる論文『Generative models, linguistic communication and active inference』です。 本論文では、能動的推論(Active Inference)の枠組みを用いて、エージェントが「20の質問(Twenty Questions)ゲーム」を行うシミュレーションが紹介されています。「20の質問ゲーム」では、相手が頭の中で考えている状況を、限られた回数の質問で推定します。このゲームにおいてAI(エージェント)に求められるのは、単にランダムな質問を繰り返すことではなく、最も効率的に相手の意図に迫る問いを選択する能力です。 現在の生成AIは過去のデータから次に続く確率の高い言葉を出力する傾向が強く、会話を前に進めるための問いかけが苦手です。しかし、能動的推論を用いたエージェントは、会話の主題に対する不確実性(曖昧さ)を計算し、それを最も減少させられる質問を自発的に選択します。 このように、AIがただ受け身で回答を生成するのではなく、自身の曖昧さを最も下げるような質問を自発的に選択することで、相手が何を考え、何に困っているのかを理解することができます。これが「不確実性を最小化するような質問」ということです。 能動的推論という考え方 インタビュアーその仕組みは、どのように実現されるのでしょうか。乾先生能動的推論が頭にあって、その下にLLMみたいなものがあるイメージです。生成AIは豊富な知識を持っています。しかし、次に何を知るべきか、どのような質問をすれば相手をより深く理解できるのかを判断する仕組みは、現状のAIだけでは十分ではありません。能動的推論は、そのような「理解するための行動」をAIに与える考え方です。つまり、システム全体を統括する能動的推論が頭脳(上位レイヤー)として存在し、その下で膨大な知識を持つLLMが動いているようなイメージです。AIが受け身で回答を生成するのではなく、自ら質問を重ねながら相手への理解を深めていく――そのような未来像が示されました。 理解とは、不確実性を減らすこと – AIは人を幸せにできるのかインタビュアー人を理解することには、どのような意味があるのでしょうか。ウェルビーイングとも関係するのでしょうか。乾先生ウェルビーイングというのは、不確実性を下げることと関係していると思っています。一般にウェルビーイングというと、「幸福」や「満足感」といった言葉で語られることが多くあります。一方で乾先生は、「安心して行動できる状態」という視点からウェルビーイングを捉えています。将来が見えない、相手の考えが分からない、あるいは自分の判断に自信が持てない時、人はこのような不確実性に直面すると、不安やストレスを感じます。AIが適切な問いを投げかけ、本人の考えを整理し、不確実性を減らす。その結果として、人はより安心して意思決定できるようになる。AIは答えを与える存在だけではなく、考えることを支援する存在になる可能性があるというお話は、とても印象的でした。 共感するAIは実現できるのか インタビュアー人を理解するAIの先には、どのような未来をお考えでしょうか。乾先生共感にも種類があります。まずは相手を理解することが大事なんです。インタビューの終盤では、「共感」というテーマへと話が広がりました。乾先生は、共感とは単に感情を共有することではなく、相手を理解し続ける姿勢であると説明されます。また、心理的安全性やマインドフルネスといった話題にも触れながら、人が安心して対話できる環境の重要性についても語られました。AIが人を理解し、その理解を更新し続けることができれば、人と人とのコミュニケーションを支える存在にもなり得るのではないでしょうか。 おわりに 今回のインタビューでは、AI技術そのものよりも、「AIは人をどのように理解するのか」という点について、多くの示唆をいただきました。 「答えるAI」から「理解するAI」へ。 質問を重ねながら相手を理解し、不確実性を減らし、人が安心して行動できるよう支援する。その考え方は、個人のウェルビーイングだけでなく、組織における心理的安全性や共感にもつながっていきます。AIの進化とは、単に性能が向上することではないのかもしれません。人とAIとの関係が変わること。そして、AIが人を支える方法そのものが変わること。今回のインタビューは、その未来を考える上で、多くの示唆を与えてくれる内容でした。 対談の様子