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非ゼロ和
棋士はなぜ消耗しないのか|非ゼロ和の活動が脳を安心させる
将棋の対局は、勝ちと負けしかありません。一方が得れば、その分だけ他方が失う。経済学でいう完全なゼロ和ゲームです。しかも棋士は、それを何十年も続けます。 理屈のうえでは、これほど消耗する職業もなさそうです。ところが実際の棋士は、勝負のきびしさとは別のところで、かなり豊かに見える。やさしいAI研究所の顧問である京都大学名誉教授・乾敏郎先生の講演資料をもとに、脳科学から見たウェルビーイングを3回に分けてお届けしています。第2回は、脳の予測が社会環境に向けられたときの話です。プロフィール乾 敏郎さん京都大学 名誉教授専門分野は認知神経科学、認知科学、計算論的神経科学。京都大学大学院文学研究科教授、京都大学大学院情報学研究科教授を歴任。現在は京都大学名誉教授、金沢工業大学客員教授、児童発達支援・放課後等デイサービスUNICO学術顧問、やさしいAI研究所顧問を務める。20の学会賞を受賞。論文数446編(うち英語論文115編)のほか、著書・訳書など75冊を出版している。前回は、ウェルビーイングを「予測誤差が小さい状態」として捉え直しました。同じ働き方をしていても、消耗する人としない人がいる。その差は、どこから来るのか。 幸福を高める活動と、損なう活動 手がかりになるのが、Mark Miller、Julian Kiverstein、Erik Rietveld による2022年の論文「The Predictive Dynamics of Happiness and Well-Being」(Emotion Review 14巻1号)です。前回登場した予測処理の枠組みを、そのまま幸福の説明に使った研究として知られています。 この論文が置く区別が、非ゼロ和とゼロ和です。他者との協力、利他的な行動、家族や友人との関係、社会への貢献。こうした活動は、誰かが得たぶん誰かが失うという形をしていません。一方で、純粋な金銭的利益の追求はウェルビーイングを損なうとされます。乾先生の講演資料は、ここに社会的な競争心、短期的な快楽、同じことの反復に固まった習慣を加えて整理していました。 乾先生の講演資料より論文の主張はシンプルです。幸福を高めるのは非ゼロ和的な活動で、損なうのはゼロ和的な活動。非ゼロ和の活動は行動のレパートリーを広げ続けるので、環境が変わっても新しい安定へ移っていける。前回の「予測の効く範囲を広げられるか」という話と、そのままつながります。脳から見ると、世界の見え方が変わる なぜ非ゼロ和だと消耗しないのか。乾先生の講演資料は、その理由を脳の予測から説明します。 ゼロ和の世界に立つと、他者は潜在的な敵になります。社会は奪い合いの場で、油断すれば取られる。この前提で動く脳は、常に脅威を予測し続けることになります。しかも同じ競争パターンを繰り返すうちに行動は硬直し、快楽刺激の反復に寄っていく。前回の「タコツボ状態」に近い形です。 非ゼロ和の世界では、他者は協力者になり、社会は相互支援の場になります。脅威の予測が減れば、ストレス反応も下がる。安心感がそのまま脳のコストの低さとして現れます。 脳が求めているのは、刺激の多い環境ではありません。予測しやすく、安全で、安定した環境です。棋士の一日を分解してみる 冒頭の問いに戻ります。棋士の活動のうち、ゼロ和なのは対局そのものだけです。 師匠と弟子の関係があり、研究会や合宿で手を持ち寄り、共同で定跡を掘る。ファンと交流し、テレビや配信で解説をし、普及活動に出向く。対局のあとには仲間との雑談がある。こうして並べてみると、棋士の日々の大半は非ゼロ和です。乾先生の表現を借りれば、棋士は「ゼロ和ゲームを核に、非ゼロ和の社会の中で生きている」。 乾先生の講演資料よりこの構造は、多くの仕事にそのまま当てはまります。営業の数字は椅子取りゲームでも、その周りにある同行、引き継ぎ、後輩の相談、顧客との長い付き合いは非ゼロ和です。消耗を決めているのは、活動の中心にあるゼロ和の量ではなく、その周りに非ゼロ和の層がどれだけ育っているか。ノルマそのものを消せない職場でも、ここは動かせます。 つながりは、あったほうがいいものではない ここまでの話は、人づきあいの多い人が得をするという意味ではありません。心理学の側から見ると、つながりはもっと根本的なものとして扱われています。 マズローの欲求階層では、第3階層に「所属と愛の欲求」が置かれます。仲間として受け入れられたいという欲求は、安全が確保されたあとに立ち上がる基本的なものだという整理です。デシとライアンの自己決定理論はさらに踏み込み、人が内側からやる気を出すために欠かせない3つの欲求として、自律性、有能感、そして関係性を挙げます。 その鍵になるのが共感的理解、つまり「わかってもらえた」という感覚です。乾先生は共感的な姿勢を、相手の内側を理解しようとする意図と、その理解を相手に伝わる形で示す行為の両方だと定義します。感じているだけでは足りない、という部分は次回の中心テーマになります。 自分の内側が分かるほど、相手も分かる では共感の力は、どうすれば育つのか。講演資料が挙げていたのは、意外にも一人でやる訓練でした。 マインドフルネス瞑想です。呼吸や身体の感覚を、良い悪いの判断をはさまずにただ観察する。これを繰り返すと、自分の内側の感情や身体感覚の小さな変化を正確に拾えるようになります。そしてその精度が上がった脳は、他者の感情の微細な変化にも気づけるようになる。ただしこの経路は、まだ決着がついていません。心拍を数える課題のような客観指標で測ると、瞑想の経験者とそうでない人に差が出なかったという報告もあります。 自分の予測誤差を細かく読める人が、他人の予測誤差も読める。共感が生まれつきの性格ではなく、鍛えられる知覚の精度として説明されている点が、この考え方のおもしろいところです。 まとめMiller らの2022年の論文は、幸福を高めるのは協力や利他といった非ゼロ和の活動で、損なうのは競争や短期的快楽といったゼロ和の活動だと整理した ゼロ和の前提で動く脳は他者を潜在的な敵として脅威を予測し続ける。非ゼロ和の関係では脅威予測が減り、ストレス反応も下がる 棋士の仕事の核は完全なゼロ和だが、日々の大半は師弟関係や研究会という非ゼロ和で満たされている。消耗の差を決めるのは、ゼロ和の周りに非ゼロ和の層がどれだけあるか最終回は、この話を職場に持ち込みます。Googleが約180チームを調べて突き止めた「強いチームの条件」と、共感を相手に届けるための具体的なやり方を見ていきます。次に読むのがおすすめの記事引っ越し直後がしんどいのはなぜ?|脳の予測とウェルビーイング 答えるAIから、理解するAIへ——AIは人を理解できるのか 他人のあくびがうつるのはなぜ?——ミラーニューロンとAIをやさしくやさしいAI研究所ブログ|共創するウェルビーイング シリーズ(全3回)第2回 本記事は、やさしいAI研究所顧問・乾敏郎先生(京都大学名誉教授)の講演資料をもとに編集部が構成したものです。「やさしいAI」の研究や活動に関心をお持ちの方は、毎週土曜日のオープンラボへお気軽にどうぞ。やさしいAI研究所の全体像はコーポレートサイトからご覧いただけます。